将棋を教えている

最近、縁があって友達の友達に将棋を教えている。
藤井聡太竜王名人の快進撃をみて将棋を始めたらしく、今では初段の腕前だそうだ。
一般的に、初段になるには真面目に取り組んで半年はかかると思うので、社会人になって到達するのはすごいことだと思う。
ただ当然、四段の自分から見ると改善点はたくさん見えるので、教えることで少しでも上達に貢献できたらと思っている。

言語化

教えると言っても直接対局しているわけではなく、彼が指した将棋を見て改善点を教えるという方法をとっている。あまり細かく言い過ぎず、次につながるような大局的な方針や汎用的な概念を伝えるように心がけているのだが、その中で気づいたことがある。

それは、手の意味を聞かれたときや局面の方針を聞かれたときに、ほぼ必ず言語化できるということだ。
もちろん、常に即答できるわけではないが、少し考えると彼の指し手の違和感に理由をつけることができる。

たとえば、美濃囲いで桂馬を跳ねる形があるが、実はこの手は囲いの強度と言う意味では弱体化している。
ちゃんと上部に厚みを加えるなど目的があって指すことができる、いわば決断の一手なのだが、初段あたりの人は形だけで覚えているのでなんとなくで指してしまう。そのメリットデメリットを言語化できるようになって初めて、効果的に桂馬を跳ねる手を指すことができるのだ。

なぜ言語化が重要なのかというと、闇雲に先の先を読んだところで、その局面の評価を正確に判断できないと意味がないからだ。
たとえば、Aという手を選んだ局面とBを選んだ局面の3手先を読んだとして、その局面の優劣が判定できないと、ABどちらの指し手を選んだほうが良いか判断できない。
このとき、どちらの手のほうがより良いかの判断の基準となるのが言語化という行為であり、「こちらのほうが玉が固い」「駒の効率が良い」など具体的な理由をつけていく。

当然、それはただ公式のように覚えるだけでは身につかない。実戦を重ねることによってパターンが整理され、微妙な違いに気づけるようになり、理由を言語化できるようになる。

つまり、将棋が強くなるとは、膨大な経験の中から指し手のエッセンスを抽出し、一つ一つ言語化していく作業なのだ。
そして、強くなるごとに言語化の精度が上がり、端歩の違いなど微妙な差異にも理由をつけることができるようになる。これがそのまま力の差に直結する。
どこまでいっても、この繰り返しなのだと思う。

小説との共通点

先を考えることを「読み」と呼ぶように、将棋の指し手を読むのは小説を読む感覚に似ているように思う。どうもこれは、藤井猛九段(藤井システムで有名な人)も言っていたことらしい。

藤井聡太のデビュー当時、「僥倖」や「望外」などの難しい言葉をインタビューで使っていることが話題になった。これは昔の名人の観戦記を読んでいる影響なのだが、将棋中継の解説などを聞いていると、彼だけでなく棋士はそういった語彙や言語化能力が高い人が多いように見受けられる。
それが、将棋が言語化のゲームであることの裏付けになる気がしている。
(まあ、将棋の棋士はプロになるための厳すぎるハードルから、全般的に能力が高い気もするのでなんとも言えないが...)
自分自身、文章を考えているときは将棋の手を言語化をしていく作業の感覚に非常に近いと感じる。
頭の中にある、なんとなくの感覚を明確に言葉で定義していく営み。
自分にとっての読書と将棋、2つの一見関係のない趣味がつながる瞬間だった。

AI

彼は自分に教わる以外ではAIに自分の将棋の棋譜を読み込ませて、どこが悪かったか聞いているらしい。
とても現代的なやり方だと思うし、そこから得るところも多いと思う。
ただ、AIは具体的な指し手は教えてくれるが、手の言語化まではしてくれない。
また、AIは人間には難易度の高い指し手を提示してくることが多く、(しかもそのことに気づけないので)あまり効果的ではないように感じる。
上達する上でどういう付き合い方をするべきなのか、模索中...